風のクロノア〜Door to Phantomile〜(以下DtP)は私にとって恐ろしいほ程の強烈な印象を与えたゲームである。
よく“泣きゲー”として引き合いに出されるゲームであるが、
ただそれだけのものではない深みがこのゲームにある。
実は私がこのゲームをプレイし終えた時、その“感動のシナリオ”に泣かなかった。
その代わり、胸の下から突き上げてくるような激しい衝撃を感じ、
プレイし終えた翌日は腑抜けになって日がな一日ぽけーっと魂が彷徨っていた。
DtPは確かに私に何かを与えた。しかしそれは涙ではなかった。ではそれは何なのだろうか。
私はこのゲームについての解析を扱っているサイトがあると思い、
ずいぶんGoogleで検索したのだがついにそれは見つからなかった。
誰もやらないのだったら私がやる!と勇み出たい所なんですけど馬鹿なんで
正直こんな事できるよーな奴じゃないんです。でもそれでもなんとか自分のベストを出し切って、
これを読んで頂けた賢知ある人からこれに対する反論みたいなものが出たら良いなと
淡い希望を残して放置しておきます。ではどうぞ。

クロノアから僕達は何を得たのか
2003/10

クロノアから私達は何を得たのか。googleでゲーム名を入力し検索して出てきた
様々なサイトのレビューやプレイ後雑感を見ていると、このゲームの焦点は概ね
“クロノアとヒューポーの友情物語”に対するものだと集約できそうである。曰く、ラストの別離に涙した、と。
確かにDtPにはそういう友情物語としての側面がある。そのテーマを語らせるシーンを
後半に特に多めに取ってある所から、DtPのシナリオの軸といってもいいものだろう。
しかしそれだけでこのゲームの価値を終わらせてしまってよいものだろうか。
私もあのラストで“涙した”人間だが、私はヒューポーとの別れだけによって涙したのではないと感じている。
クロノアとヒューポーの友情物語を生んだファントマイル世界との別れに胸を打つものがあったからなのではないか、と。
しかしそれでは“クロノアとヒューポーの友情物語+ファントマイル世界の物語”となり、
実質的に深みは変わらないのではないかとご指摘されるのではないかと思う。
だがここで注意して頂きたいのは、私が言いたいのは“何かのメタファーとしてのファントマイル”の事であり、
単なる“空想世界という意味でのファントマイル”ではないという事だ。
ではDtPで描かれた世界観“ファントマイル”はどういった意味合いを持つものなのか。

ファントマイルとはどういう世界なのか。副題の“Door to Phantomile”はどういう意味なのか。
Phantomileという単語はこの世界には存在しない(いや、恐らくですが……)。
そこで異世界を演出する為に生み出した造語と推測して、
ではこれは完全な造語なのだろうか?(マクロスのゼントラーディ語のように)
それとも何か複数の外国語の単語を合成したものなのだろうか。試しに英語辞書を使って
Phantomileに近い単語を調べてみる。


Phantom 1:幻 幻影 幽霊
2:幻像 幻影 幻想
3:実体の無い物・人
mile

1:マイル
2:かなり はるかに

-ile (接尾語)〜に関する 〜できる などの名詞、形容詞を作る。

もし「Phantom」+「ile」の造語であれば、Phantomileは「幻想に関する物(人)」
「幻想できる物(人)」という意味になる。
勿論これは英単語の組み合わせて偶然に出来た
“可能性”であり、容易に否定できるものであるが、ファントマイルという世界が
どのような要素によって形成されているのかを思い正せばこの可能性は強固なものになる。
ファントマイルは人々の夢によって形成されており―つまりは夢という“幻”から
形作られている世界である。また、クロノア=プレイヤーの視点から見れば
ファントマイルは幻想の世界であり、上記よりファントマイルは幻想の世界のメタファーである
という可能性
を一要素として考察対象に留めておく事にする。

次にDtPのストーリーを軸にして考察を進めていく事にする。
するとDtPは以下のような繰り返し――反復を持つシナリオであるという事が分かる。


飛空艇が鐘の丘に墜落する 行って確かめる 原因(のようなもの)やその事故を
演出した人物関係が(大体)分かる
月のペンダントを手に入れる 何なのかオババに訊く為に
フォーロックに行く
クレスに行く鍵だと分かる
滝が逆流している 原因と思われるジャグポット王を
正気に戻す
フォーロックへの道が開かれる
ガディウスによってジャグポット王は
狂気に囚われている
クロノアによって“諭される” 正気に戻る
ジョーカーにペンダントの秘密が漏れる クロノアはじっちゃんの元に走る ブリーガルに戻る
ジョーカーにじっちゃんを殺される じっちゃんの遺言通りクロノアはガディウス打倒の為クレスやコロニアに乗り込む ガディウスを倒す
宝珠がガディウスの手下によって
奪われる
クロノアはそれを奪取する 祭壇への道が開く
ガディウスが世界を
悪夢に染めようとする
クロノアはそれを阻止する ガディウスは倒れ、
世界に平和が戻る
ナハトゥムが生まれる クロノアはそれを倒す ナハトゥムは倒れ、
レフィスが救出される
クロノアがいる世界 ヒューポーに諭され、レフィスによって“君の現実(ファントマイル)”に帰される クロノアが居ない世界

ジョーカーは自分がガディウスの
腹心だと思い込んでいる

クロノアに倒される

自分がムゥと同じ手駒歩兵に過ぎないことに気付く


かなりこじ付けた所もあるが(ってか殆どジャン)、これの何に関連性があるのかというと、つまりこれらは
『非日常→それが何者かによって打破される→日常』という行為の繰り返しなのである。
これは何もDtPに限ったものではない。巷に溢れるRPGもまたこの構成で作られている。
よく自嘲目的で使われる“おつかいミッション”という言葉を知っている人にとっては分かりやすい概念であろう。
またRPGやストーリー性のある他のジャンルのゲームはその特性から、大抵はそれがプレイヤーや、
更にもしかすると登場人物にとってのビルドゥングス・ロマンである事を余儀なくされる(レベルアップや難易度アップの事ね)。
この要素がどんどん巨大なものになっていくという点は、DtPのストーリーを説明する時に
よく使われる「日常の些細な事件があっという間に世界を巻き込む巨大な事件になって――」というものは
DtPに限らなくとも既に使い古されたものなのである。
また物語にはその性質上、限界と言い換えられるような制約がある――最後には必ず別れが用意されているのである。
つまりこれは読者と物語世界とのものであり、それを知った上で何故私たちが涙したかというと、
クロノアはプレイヤーの化身である事に気付いていなかった事に加え、ラストでヒューポーがクロノアを引きとめようとする
その後からの展開に“涙した”のは自明であろう(意表をついたという事もあるけど)。
つまりDtPのストーリー展開は格段に持ち上げられるものでは無い没個性的なものだが、
その旧来から使われてきた要素を最大限に利用し、またゲームというメディアの持つ特徴を活用した
エンディングを配置する事によって前者の持つ力を遺憾なく発揮する事ができた傑作であると言える。

このDtPのストーリーは一見すると簡単に模倣ができそうであるが(何しろ主人公を受け手自身にし、
テキトーなビルドゥングス・ロマンにすればいいだけの話に見えるから)、
しかしこれがかなり危ういバランスの上に成り立っているエンディングであるという事をご存知だろうか?
リレーエッセイにある擬似投書にも趣旨は違うが同意味な問題を指摘しているものがあり、
それはつまりクロノアとヒューポーの間の友情が偽りのものに見えるという問題である。
台詞集を読んで頂けたらお気付きになられると思うが、ヒューポーは常にクロノアを使役させるような発言をしているのである。
(「行ってみようよ、クロノア!」から始まり、「気持ちはわかるけど……ペンダントを追わなきゃ。」とか
「もう少しだけ、もう少しだけ力を貸してくれないか……クロノア!」とか。
「今はまだわけは話せない」ってナンデだよ。ヒデェなぁヒューポーは)
もし台詞だけを見ればヒューポーはクロノアに嘘を吐いて使えるだけ使い、最後に突然真実を打ち明け
クロノアが充分な抵抗できない間にクロノアさよならヒューポーにっこりエンド、というストーリー構成に見える。
しかしそうならなかったのは何故か。ストーリー性のあるゲームはよく成長というテーマをストーリーに込めると前述した。
しかしDtPの主人公クロノアはゲーム中では全く成長していないように見える(そうなんだって)。
その替わり成長した(=積み重ねられた)ものがある。それがヒューポーとクロノアの友情である。
前述したストーリーに対する考察において箇条書きしたイベントの全てにヒューポーが介在している。
クロノアの傍には何時もヒューポーが居たのである。そしてその友情物語はナハトゥム戦によって頂点に達し、
その状況のままあのラストに突入した。この些細ながら丹念な積み重ねが無ければこのシナリオは成り立たなかったであろう。
(「ヒューポー……なに言ってんだい。ぼくたち、子供の頃からの親友だろ!」
「ヒューポー、良いお友達を持ちましたね。」「大丈夫…離さない……絶対に離さないから……。」
「一緒に遊ぼうよ…前みたいにさ!」等々、こういうセリフの積み重ねによって否が応でも
彼等が親友であるという事をプレイヤーの胸に刻みこむのである。些細なように見えて結構重要)

上記より生み出される推論は「クロノアとヒューポーの友人関係をゲームの進行に合わせて絶妙に配置し、
ラストを盛り上げて涙を誘ったゲームである」といったものになるが、しかしこれでは解決されていない問題が
山積みのまま残される事になる。その問題とはゲーム中における夢の問題と、以下のようなものである。


この開発が始まった当時、僕が他のゲームに抱いていた疑問、というか不満は、
ゲームにおけるストーリーなんて所詮雰囲気を盛り上げるためのおまけに過ぎないという考えのゲームが多かったことでした。
映画のようなゲームを創りたいという思いはゲーム業界にかなりあるし、僕もその一人で、
今までにも何本か(というより全部かも?)そういったゲームを創ってきたのですが、
次第にそれはどうがんばっても「映画的」ではあっても、「映画」ではないわけで、
自分たちはゲームを作っているのであって、
映画を作っているわけではないという認識をするようになったのでした。
そうなると「映画のようなゲームを創りたい」という思いと
「ゲームは映画ではない」という認識の矛盾にちょっぴり悩んだりもしました。
そのうちに、それならばゲームでしか語る事のできない話は作れないんだろうか、
映画では描けない、ゲームという形でしか存在し得ないストーリーというものはできないだろうか、
と思うようになり、そんな思いを抱きつつ考えつづけていたのでした。
そんなある日、あのオープニングとエンディングを思い付いたのです。
この話をメイン企画の小林に話したところ結構ノリ気で盛り上がり、
久々に興奮を覚えたものでした。それからは一気にストーリーの骨子が決まり、
途中のストーリーは二転三転しましたが、骨子自体はこの時のままで完成に至りました。


「風のクロノア 開発者リレーエッセイ」より

また、私のDtPというゲームをどのように捉えているかという事は「ゲームと映画の違い―ゲームとは何か?」で
述べさせて頂いた通りであり(一年半前の文章……若かったナァ、あの頃は)、
また、私は当然ながらあのエンディングこそがクロノアの全て――DtPのディレクターである
吉沢秀雄氏が伝えたかった事の全てであると思う。
このエンディングについて、あるレビューでは「プレイヤーにこれは仮想であって現実に居る自分を自覚させる」
と解説していて、私も少し前まではそんな立場だった(ほら、馬鹿でしょ?)。
しかし考え直してみるとゲームをプロデュースするクリエイターがそんなお節介な教条的テーマを
盛り込むのかどうか甚だ疑問である。クリエイターがそんなに悲観的になってどーするんだろう。ねぇ。
それでは、あのエンディングで真に伝えたかったものは何か。テーマを読み解くキーワードと思えるものを書き出してみる。


・ 「帰るときが来たんだ、君の現実(ファントマイル)に」
・没セリフ「いつかボクも…君のファントマイルに…!」

もしこのエンディングが「プレイヤーが現実に居る事を自覚させる」のを目的とするならば、ヒューポーはきっと
現実をファントマイルと言い換えないし、ヒューポーはクロノアを引きとめようとしないだろう。
そうではなくあれは別れを更に強く演出する為に必要だったものかもしれないが、
それらの可能性は無視または保留しておくとして(――いやー、確かにそういう目でもクロノアは見れると思うのですが……
ゲーム好きオタクとしてクリエイターからそういわれるのは痛いものがあるので)、これらは何を表しているのか。
ここで注目して欲しいのがヒューポーの「帰るときが来たんだ、君の現実(ファントマイル)に」というセリフである。
現実をファントマイルと言い換えている(もしくは逆)点、
それは恐らく『ファントマイル世界は現実と等価関係で結ばれている』のだと高らかに宣言している事に他ならないのではないか。
つまりはエンディングにおいてファントマイルが実在可能な異世界(≒パラレルワールド)であると視聴者に感じさせ、
さて現実はと目を向けて広がる現実に懐疑心を持たせる事が目的ではないかと私は思う。
もしファントマイルが現実とは根本的に違う夢と捉え、相対化するならば
DtPのシナリオは只のノスタルジーを想起させるもの過ぎなくなる。
しかしそれだけで終わらない、何かもっと価値あるものを得た筈である。
つまりこのエンディングは単なる終わりではなく、今目の前に広がっている現実と対決するその第一歩なのだ、と。
先程箇条書きで述べた『非日常→それが何者かによって打破される→日常』という構造を思い出して欲しい。
たったあれだけのストーリーならば凡百あるゲームのシナリオと全く大差ない。
しかしDtPはこれを更に成長させ、今我々が手にしている現実という非日常を日常に戻す為の“何者か”の役割を果たしたものだと言えそうである。
果たしてこのように影響が現実世界にまで及ぶ作品が今まであっただろうか。
(コスプレ等のオタク文化はゲームから影響を受けたものであり、現実世界にゲームが波及した例として上げられるのだが、
これらは『現実世界がゲームに隷属している』例であり
DtPが示した『現実世界と等価関係で結ばれているファントマイル世界』とは全く違うものである。たぶん)

ファントマイルは夢ではあってはならない。何故ならそれはプレイヤーが体験した現実だからである。
そして現実は現実のままであってはならない。何時かそれが夢になる時があるからである。
現実に懐疑心を持ち(=夢だと思い)、新たな現実を求め一歩を踏み出す
――そういう人生の階段(うわ、くさー……)の一段にDtPは食い込んできたのだ。
映画は受動的な構造をしており、ゲームは能動的な構造をしている。
つまりゲームというメディアを使えば説明的に語る事無く自己言及性をモチーフにする事が出来るのだ。
映画でもこうした試みはなされてきたが(押井守然り)、
不思議な事に映画よりも雄弁に語る事が出来るゲームでは一度も試みられていなかったと思う(ゲームしてないのに決め付けるなよ)。
このような点を突いたDtPはそれが単なる試みに終わらず、
以上で述べてきたその非の打ち所の無いシナリオの完成度からあらゆるゲームを突き放して、今でも私の中で孤高の位置にある。
そして恐らくDtPを越えるストーリー性を持ったゲームは今後出ないであろう。
何故ならDtPはゲームというメディアを用いて標榜する事が出来得るものの内の、ある一つの完成点を導き出したソフトと言えるからである。

まだまだ続く……

参考文献
風のクロノア/開発者リレーエッセイ
Mainichi INTERACTIVE ゲームクエスト内 風のクロノア Door to Phantomile

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