クロノアから僕達は何を得たのか
2003/10
クロノアから私達は何を得たのか。googleでゲーム名を入力し検索して出てきた
様々なサイトのレビューやプレイ後雑感を見ていると、このゲームの焦点は概ね
“クロノアとヒューポーの友情物語”に対するものだと集約できそうである。曰く、ラストの別離に涙した、と。
確かにDtPにはそういう友情物語としての側面がある。そのテーマを語らせるシーンを
後半に特に多めに取ってある所から、DtPのシナリオの軸といってもいいものだろう。
しかしそれだけでこのゲームの価値を終わらせてしまってよいものだろうか。
私もあのラストで“涙した”人間だが、私はヒューポーとの別れだけによって涙したのではないと感じている。
クロノアとヒューポーの友情物語を生んだファントマイル世界との別れに胸を打つものがあったからなのではないか、と。
しかしそれでは“クロノアとヒューポーの友情物語+ファントマイル世界の物語”となり、
実質的に深みは変わらないのではないかとご指摘されるのではないかと思う。
だがここで注意して頂きたいのは、私が言いたいのは“何かのメタファーとしてのファントマイル”の事であり、
単なる“空想世界という意味でのファントマイル”ではないという事だ。
ではDtPで描かれた世界観“ファントマイル”はどういった意味合いを持つものなのか。
ファントマイルとはどういう世界なのか。副題の“Door to Phantomile”はどういう意味なのか。
Phantomileという単語はこの世界には存在しない(いや、恐らくですが……)。
そこで異世界を演出する為に生み出した造語と推測して、
ではこれは完全な造語なのだろうか?(マクロスのゼントラーディ語のように)
それとも何か複数の外国語の単語を合成したものなのだろうか。試しに英語辞書を使って
Phantomileに近い単語を調べてみる。
Phantom | 1:幻 幻影 幽霊 2:幻像 幻影 幻想 3:実体の無い物・人 |
mile |
1:マイル |
-ile | (接尾語)〜に関する 〜できる などの名詞、形容詞を作る。 |
もし「Phantom」+「ile」の造語であれば、Phantomileは「幻想に関する物(人)」
「幻想できる物(人)」という意味になる。勿論これは英単語の組み合わせて偶然に出来た
“可能性”であり、容易に否定できるものであるが、ファントマイルという世界が
どのような要素によって形成されているのかを思い正せばこの可能性は強固なものになる。
ファントマイルは人々の夢によって形成されており―つまりは夢という“幻”から
形作られている世界である。また、クロノア=プレイヤーの視点から見れば
ファントマイルは幻想の世界であり、上記よりファントマイルは幻想の世界のメタファーである
という可能性を一要素として考察対象に留めておく事にする。
次にDtPのストーリーを軸にして考察を進めていく事にする。
するとDtPは以下のような繰り返し――反復を持つシナリオであるという事が分かる。
飛空艇が鐘の丘に墜落する | 行って確かめる | 原因(のようなもの)やその事故を 演出した人物関係が(大体)分かる |
月のペンダントを手に入れる | 何なのかオババに訊く為に フォーロックに行く |
クレスに行く鍵だと分かる |
滝が逆流している | 原因と思われるジャグポット王を 正気に戻す |
フォーロックへの道が開かれる |
ガディウスによってジャグポット王は 狂気に囚われている |
クロノアによって“諭される” | 正気に戻る |
ジョーカーにペンダントの秘密が漏れる | クロノアはじっちゃんの元に走る | ブリーガルに戻る |
ジョーカーにじっちゃんを殺される | じっちゃんの遺言通りクロノアはガディウス打倒の為クレスやコロニアに乗り込む | ガディウスを倒す |
宝珠がガディウスの手下によって 奪われる |
クロノアはそれを奪取する | 祭壇への道が開く |
ガディウスが世界を 悪夢に染めようとする |
クロノアはそれを阻止する | ガディウスは倒れ、 世界に平和が戻る |
ナハトゥムが生まれる | クロノアはそれを倒す | ナハトゥムは倒れ、 レフィスが救出される |
クロノアがいる世界 | ヒューポーに諭され、レフィスによって“君の現実(ファントマイル)”に帰される | クロノアが居ない世界 |
ジョーカーは自分がガディウスの 腹心だと思い込んでいる |
クロノアに倒される |
自分がムゥと同じ手駒歩兵に過ぎないことに気付く |
上記より生み出される推論は「クロノアとヒューポーの友人関係をゲームの進行に合わせて絶妙に配置し、
ラストを盛り上げて涙を誘ったゲームである」といったものになるが、しかしこれでは解決されていない問題が
山積みのまま残される事になる。その問題とはゲーム中における夢の問題と、以下のようなものである。
また、私のDtPというゲームをどのように捉えているかという事は「ゲームと映画の違い―ゲームとは何か?」で
述べさせて頂いた通りであり(一年半前の文章……若かったナァ、あの頃は)、
また、私は当然ながらあのエンディングこそがクロノアの全て――DtPのディレクターである
吉沢秀雄氏が伝えたかった事の全てであると思う。
このエンディングについて、あるレビューでは「プレイヤーにこれは仮想であって現実に居る自分を自覚させる」
と解説していて、私も少し前まではそんな立場だった(ほら、馬鹿でしょ?)。
しかし考え直してみるとゲームをプロデュースするクリエイターがそんなお節介な教条的テーマを
盛り込むのかどうか甚だ疑問である。クリエイターがそんなに悲観的になってどーするんだろう。ねぇ。
それでは、あのエンディングで真に伝えたかったものは何か。テーマを読み解くキーワードと思えるものを書き出してみる。
もしこのエンディングが「プレイヤーが現実に居る事を自覚させる」のを目的とするならば、ヒューポーはきっと
現実をファントマイルと言い換えないし、ヒューポーはクロノアを引きとめようとしないだろう。
そうではなくあれは別れを更に強く演出する為に必要だったものかもしれないが、
それらの可能性は無視または保留しておくとして(――いやー、確かにそういう目でもクロノアは見れると思うのですが……
ゲーム好きオタクとしてクリエイターからそういわれるのは痛いものがあるので)、これらは何を表しているのか。
ここで注目して欲しいのがヒューポーの「帰るときが来たんだ、君の現実(ファントマイル)に」というセリフである。
現実をファントマイルと言い換えている(もしくは逆)点、
それは恐らく『ファントマイル世界は現実と等価関係で結ばれている』のだと高らかに宣言している事に他ならないのではないか。
つまりはエンディングにおいてファントマイルが実在可能な異世界(≒パラレルワールド)であると視聴者に感じさせ、
さて現実はと目を向けて広がる現実に懐疑心を持たせる事が目的ではないかと私は思う。
もしファントマイルが現実とは根本的に違う夢と捉え、相対化するならば
DtPのシナリオは只のノスタルジーを想起させるもの過ぎなくなる。
しかしそれだけで終わらない、何かもっと価値あるものを得た筈である。
つまりこのエンディングは単なる終わりではなく、今目の前に広がっている現実と対決するその第一歩なのだ、と。
先程箇条書きで述べた『非日常→それが何者かによって打破される→日常』という構造を思い出して欲しい。
たったあれだけのストーリーならば凡百あるゲームのシナリオと全く大差ない。
しかしDtPはこれを更に成長させ、今我々が手にしている現実という非日常を日常に戻す為の“何者か”の役割を果たしたものだと言えそうである。
果たしてこのように影響が現実世界にまで及ぶ作品が今まであっただろうか。
(コスプレ等のオタク文化はゲームから影響を受けたものであり、現実世界にゲームが波及した例として上げられるのだが、
これらは『現実世界がゲームに隷属している』例であり
DtPが示した『現実世界と等価関係で結ばれているファントマイル世界』とは全く違うものである。たぶん)
ファントマイルは夢ではあってはならない。何故ならそれはプレイヤーが体験した現実だからである。
そして現実は現実のままであってはならない。何時かそれが夢になる時があるからである。
現実に懐疑心を持ち(=夢だと思い)、新たな現実を求め一歩を踏み出す
――そういう人生の階段(うわ、くさー……)の一段にDtPは食い込んできたのだ。
映画は受動的な構造をしており、ゲームは能動的な構造をしている。
つまりゲームというメディアを使えば説明的に語る事無く自己言及性をモチーフにする事が出来るのだ。
映画でもこうした試みはなされてきたが(押井守然り)、
不思議な事に映画よりも雄弁に語る事が出来るゲームでは一度も試みられていなかったと思う(ゲームしてないのに決め付けるなよ)。
このような点を突いたDtPはそれが単なる試みに終わらず、
以上で述べてきたその非の打ち所の無いシナリオの完成度からあらゆるゲームを突き放して、今でも私の中で孤高の位置にある。
そして恐らくDtPを越えるストーリー性を持ったゲームは今後出ないであろう。
何故ならDtPはゲームというメディアを用いて標榜する事が出来得るものの内の、ある一つの完成点を導き出したソフトと言えるからである。
まだまだ続く……
参考文献
風のクロノア/開発者リレーエッセイ
Mainichi INTERACTIVE ゲームクエスト内 風のクロノア
Door to Phantomile
戻る