ゲームと映画の違い―ゲームとは何か?
(註:文中の中の単語『ゲーム』はゲーム全体を指すのではなく主にコンピューターゲームの意味で使用しています)

「映画のようなゲーム」。
98年のゲーム業界はその言葉がキーワードだった。
少し時期がずれるが97年に発売したFF7が出荷数300万本を越える大ヒットになり、その卓越した映像表現(所謂デモムービーのようなもの)や
ストーリー重視のゲーム内容は様々なゲームに影響を及ぼしていた。
そして「映画のようなゲーム」の極致とも言える総制作費用30億円の大作『Metal Gear Solid』がその全貌を明らかにしつつあった。
まるで映画の主人公を動かしているかのような『Metal Gear Solid』の緊迫感溢れるスクリーンショットに人々は舌を巻いた。
『風のクロノア』は、そんな時期に発売された。
OP、EDやゲーム途中のデモムービー。主人公の名前が変更不可。ストーリー重視のゲーム内容等、
『風のクロノア』と「映画のようなゲーム」の主要素との共通項は探せばいくらでも出てくる。
しかし、「映画のようなゲーム」と明らかに違う点が『風のクロノア Door to Phantomile(以下風のクロノア)』にはあった。
「ゲームとは何か?」。それを『風のクロノア』は見事に描ききっていた。

ゲームの最後で、クロノアは諸悪の根源であるガディウスを倒し、悪夢の塊ナハトゥムをも倒して
ゲームはあらかじめ約束されていた予定調和の「エンディング」を迎える。たいていのゲームはこの後本編とあまり関係の無い後日談を流し
ゲームは終わる。しかしこの本来後日談であるべき所に、『風のクロノア』はこのゲームの真骨頂とも言える地雷を仕掛けたのだった。
ヒューポーはナハトゥムを倒した後、クロノアとの出会いの地ブリーガルでクロノアに真実を告白する。
本編で見え隠れていたキーワード「異の夢」について。
ヒューポーは自身の口で、異の夢というのは自分自身がバランスが崩れたファントマイル世界を是正する為に召喚した切り札であり、
世界が安定した今、消える存在であるということを、その異の夢というのはクロノア自身であることを告げる(この事は少し前に告白していたが)。
あまりにも理不尽な告白にクロノアは愕然とし、そしてその告白を必死に否定する。しかしそんな彼をよそに世界の再生は始まり、
クロノアはファントマイルからはじき出され消えていく。まるで、初めから居なかったかのように。これがエンディングの全貌である。
最後の最後まで話の一番重要なポイントを告白せず、エンディングを迎えてやっと事の全貌を話し
その設定を無理やりプレイヤーに納得させるのは理不尽だと感た人は少なからず居ると思う。
しかし、もしこのテキストを見ているあなたがそう感じているのならば少し考えて欲しい。
「映画のようなゲーム」において、我々プレイヤーはゲーム中の主人公にとって自分の行動を制限する理不尽な存在ではないのだろうか。

映画とゲームは相反する存在である。
映画では我々は視聴者つまり傍観者となり、映画を構成する物語に干渉する事は出来ない。
スクリーン上で勝手気ままに動き回る登場人物を見守るだけである。
それに対し、ゲームは我々、つまりプレイヤーが主人公となり、ある程度ストーリーに干渉を与える事が出来る。
例えば『ロマンシング・サガ』というゲームがある。
このゲームはかなり自由度が高いゲームとして知られていて、このゲームには基本的に筋道というものは存在しない。
プレイヤーにはマップと情報(何者かに奪われた剣を取り戻す、等)のみが与えられ、その二つを頼りに街を訪ね歩き、
ストーリーを組み立てていかなければならない。物語の進退を、プレイヤーに全て委ねているのである。
他にマルチエンディングという形式を取っているゲームもある。
恋愛シュミレーションゲームの殆どがこの形式を採っていて、プレイヤーが選んだ選択肢次代でグッドエンディングかバッドエンディングかに分かれる。
つまり、プレイヤーがエンディングを選択できるのである。
しかしゲームには限界がある。まず前記の方はいくら途中のストーリーを組替えられたとしても、それはどこから始めても
最後は必ず一つの絵になるパズルであり、エンディングを変えることは出来ないのである。
そして後記の方。これはいくらエンディングが変えられたとしても、それは開発者があらかじめプログラムした枠内での事であり、
あらかじめ決められたエンディングの数以上のエンディングは存在しないのである。
つまりゲームは映画と同じように、あらかじめ設定された予定調和で終わらなければならないのである。
人間の不規則性はゲームに少々の波乱を巻き起こすが、
(小さなものではRPGにおいての敵のエンカウント数の変化、そしてゲームを左右する選択肢による分岐等)
結局は一つ、あるいは複数の予定調和に向かっていく。そう定められているからである。
ゲームの終わりで、ゲームの主人公たちは物語の調和を乱す理不尽なプレイヤーの束縛から離れ、主人公たちを待つ物語の世界へ戻っていく。
それまで主人公の半身だったプレイヤーは、映画の観客のように一傍観者へと成り下がるのだ。
ゲームと映画は相反するものである。しかし、このゲームの限界ともいえるものが映画とゲームの境を分かりにくくし、
そして技術の進歩によって高度な表現技術を獲得したゲーム機そしてゲームは「映画のようなゲーム」という言葉を生み出した。
「映画のようなゲーム」の登場によってゲームの主人公とプレイヤーは解離されていき、そしてプレイヤーと主人公の力場関係が逆転した。
「映画のようなゲーム」によって、プレイヤーはゲームの主人公によって行動を制限されるような存在になったのである。

話を戻そう。『風のクロノア』が「ゲームとは何か」という疑問の解法を見事に導き出したと言える所以は、
エンディングの後のスタッフロールにも如実に現われている。第三段落の文を読んで頂けたなら、もう一度エンディングを見直して欲しい。
クロノアが去った後、茜色がかかり始めた空を眺めるヒューポーを映し、画面はフェードアウト。そしてスタッフロールと共に、一冊の本が出てくる。
その本にはクロノアとヒューポーの友情物語とも言える二人の出会いから別れまでの一連のストーリーが綴られている。
何者かによって右から左へ逆めくり(この本が左から右へとめくられる方が正しい事は、本に描かれている挿絵から窺う事が出来る)されるその本は、
スタッフロールが終わると共に表紙を表にして閉じられる。そして表紙の下部には、ゲームを始める前に記入する自分の名前が綴られている。
ここで初めてプレイヤーは気付くのである。
この本をめくっているのは自分で、この視点は自分自身の視点であるという事を。
クロノアは自分の化身、つまり自分自身であるという事を。
プレイヤーはゲームの主人公の半身、いやそのものとしてここに復権したのである。


『風のクロノア』のプロデューサーである氏はナムコのページの中にある『風のクロノア』のリレーエッセイでこう語っている。
「映画のようなゲーム」に対するオマージュをゲーム中に挿入しつつ、氏は「」等の工夫をしたりして自身の疑問に答えていった。
つまり、「ゲームに置いてストーリーは重要だがプレイヤーの立場を忘れてはいけない」、
そして、「プレイヤー無しではゲームは始まらない」ということを。氏はクロノアを通してゲームであるということに対する理念を再確認してみせた。
私が『風のクロノア』がゲームとは何かという疑問を描ききったと思うのは、こういう所にある。

追伸:いや、私も「映画のようなゲーム」は好きなんですよ。映画も好きだし、ゲームも好きだから。

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